『羊と鋼の森』の感想メモ

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才能があるから生きていくんじゃない。そんなもの、あったって、なくたって、生きていくんだ。あるのかないのかわからない、そんなものにふりまわされるのはごめんだ。もっと確かなものを、この手で探り当てていくしかない。

『羊と鋼の森(文春文庫)』宮下奈都

僕の最も好きな小説である『羊と鋼の森』の感想メモです。
ネタバレには注意 (_ _;)

本書の概要

『羊と鋼の森』は、作家宮下奈都によって書かれた小説である。

あらすじ

高校に通う主人公は、学校に来た調律師によって調律されたピアノの音色を「森の匂いがした。」と表現した。
その調律に魅了された主人公は、ピアノの調律に生涯を捧げ、学校で調律をしていた調律師の元で働くことになる。

その過程で様々な出来事に遭遇し思い悩むも、その困難を乗り越えていく。


僕が最も好きな本を一冊挙げるとすれば、この本だろう。

この本の主人公は終始才能があるかないかについて悩んでいる。ミスをしたり、納得がいかなかったり、憧れの調律師に認められる調律ができなかったりで悩む。
でも、諦めることはしない。自分に才能がない可能性を自分の中で考えながらも、調律師は続ける。努力する。研鑽する。
それは、高校生のときに感じた、羊と鋼によって奏でられた森の匂い、それとそれを作り出した調律師に憧れがあるからである。

この本は才能について語られることが多いが、成長や努力の本質を描いた作品だと思っている。
例え才能がなかったとしても、努力を続けて高みを目指していくしかない。
「なりたいもの」に憧れを持ってしまったのであれば、「何もないところから、焦らずに、こつこつと。」続けていくしかない…

本の魅力

成長や努力の本質を描いた作品

ちなみに、最もつまらないストーリーの小説を挙げよ、と聞かれてもこの本を挙げる。
この作品の最も面白い部分は「ストーリーがつまらないこと」にあると思っている。

もちろん、ディスっているわけではない。「作品の面白さ」と「ストーリーの面白さ」はイコールではない。
作品の面白さとは、テーマ性が優れていることであり、メッセージが鋭い洞察によって与えられている内容か、あるいは全く新しいことを考えさせる内容かである。
ストーリーの面白さとは、展開が優れていて、さらに読み進めたいと思わせる作品である。

概要の方にも書いたが、この本では、調律師を目指す主人公はその繊細な性格も相まってミスや自分の仕事ぶりから終始、才能があるかないか考えている。
この「終始」というのは言葉通りの意味で、最初はもちろんうまくいかないこともあり何度も挫折を経験する。しかし物語の最後に同僚の結婚式で調律することになるが、特に今までの積み重ねが活きて大活躍する描写もなく物語は終わるのである。

途中、調律を依頼する双子の女の子が登場し、恋愛に発展したり、褒められて人生を変えたりするような物語を期待するが、そのような出来事となるわけでもない。その出来事は調律師とただピアノを弾く登場人物の関係になるだけであった。

しかし僕は、この彩りのなさ、出来事の少なさ、物事のつまらなさが現実を現していて成長や努力の本質だと思う。

成長や努力は、誰かに褒められたから続けることでもないし、なにかの1つの出来事をきっかけに才能が唐突に開花するものではない。

「口にしないだけで、みんなわかってるよ。だけどさ、才能とか、質素とか考えないよな。考えたってしかたないんだから。」
ひと呼吸おいて、秋野さんは続けた。
「ただやるだけ。」

『羊と鋼の森(文春文庫)』宮下奈都

ただそれに憧れ・好きという気持ちを持ったから、それを続けるのだ。

そう思わせてくれるテーマ性がこの作品の魅力である。

唐突に才能が開花することを期待してはいけない
これが物事を極めるってことなのね

宮下奈都の美しい文体

つまらないストーリーの作品は無数に存在し、僕も今までたくさん読んできた。退屈すぎて辛くなる。そして記憶に残らない。だから、つまらないストーリーを挙げてください、と言われてもそれらの作品は全く頭の片隅にすら出てこないから伝えられない。
(「こいつはこんなつまらない作品を見ているのか」と思われたくないから、思い浮かんでも言わないが。)

ストーリーが面白い作品でないと印象に残らないが、この小説のすご味のおかげで印象に残った。
この小説のすごいところは、宮下奈都の美しい文体によって描かれ、先を読みたいと思わせるところにある。
本書では原民喜の一文が言及されている。

「明るく静かに澄んで懐かしい文体、少しは甘えているようでありながら、きびしく深いものを湛えている文体、夢のように美しいが現実のようにたしかな文体」

『羊と鋼の森(文春文庫)』宮下奈都

主人公が憧れる調律師が、このような調律を目指している、という場面で引用されている。

登場人物の格言として引用されているだけでなく、本書自体もこのような文体で書かれていて美しい。

主人公が調律師を目指すきっかけになったのは「森の匂いがした。」という表現であった。

鍵盤の前から少し横にずれて、グランドピアノの蓋を開けた。蓋――僕にはそれが羽に見えた。その人は大きな黒い羽を持ち上げて、支え棒で閉まらないようにしたまま、もう一度鍵盤を叩いた。
森の匂いがした。夜になりかけの、森の入口。僕はそこに行こうとして、やめる。すっかり陽の落ちた森は危険だからだ。昔、森に迷い込んで帰ってこられなくなった子供たちの話をよく聞かされた。日が暮れかけたら、もう森に入っちゃいけない。昼間に思っているより、太陽の落ちる速度は速い。

『羊と鋼の森(文春文庫)』宮下奈都

まさしく「明るく静かに澄んで懐かしい文体」で書かれている。

また、主人公は自分に才能があってほしいと甘える箇所が何度も出てくる。しかし、才能があるかないか分からないので、努力を続けていくしかないのである。このような成長の現実をきびしく深く表現している。

僕には才能がない。そう言ってしまうのは、いっそ楽だった。でも、調律師に必要なのは、才能じゃない。少なくとも、今の段階で必要なのは、才能じゃない。そう思うことで自分を励ましてきた。才能という言葉で紛らわせてはいけない。あきらめる口実に使うわけにはいかない。経験や、訓練や、努力や、知恵、機転、根気、そして情熱。才能が足りないなら、そういうもので置き換えよう。もしも、いつか、どうしても置き換えられないものがあると気づいたら、そのときにあきらめればいいではないか。怖いけれど。自分の才能のなさを認めるのは、きっととても怖いけれど。

『羊と鋼の森(文春文庫)』宮下奈都

その他、印象に残ったシーンや言葉

努力できることが才能である

和音かずねが何かを我慢してピアノを弾くのではなく、努力をしているとも思わずに努力をしていることに意味があると思った。努力していると思ってする努力は、元を取ろうとするから小さく収まってしまう。自分の頭で考えられる範囲内で回収しようとするから、努力は努力のままなのだ。それを努力と思わずにできるから、想像を超えて可能性が広がっていくんだと思う。
うらやましいくらいの潔さで、ピアノに向かう。ピアノに向かいながら、同時に、世界と向かい合っている。

『羊と鋼の森(文春文庫)』宮下奈都

兄弟メタファー

弟の横顔を盗み見る。こんなにやさしい顔をしていたのだったか。もうずっと、弟の顔をちゃんと見てこなかった気がする。泣いてばかりいた幼い弟。手がかかるからと、ふたつ上の僕は気を遣った。いつのまにか、聞き分けがよくおとなしい兄と、人懐っこく誰にでもかわいがられる弟、というわかりやすい図ができあがっていた。それを不満に思ったことはないつもりだった。

『羊と鋼の森(文春文庫)』宮下奈都

兄弟におしゃべりな人がいると、もう片方は無口な性格になるのがけっこう共感できる。

主人公はおとなしい性格として描かれるが、人懐っこい弟を出して、兄である主人公がおとなしい性格の人とするメタファーが僕は好きだったりする。

主人公が直接的にどういう人物かを描かれないが、間接的に説明されているような表現がいくつもあり、リアリティーが出ている。

まとめ

『羊と鋼の森』の主人公は終始才能があるかないかで悩み続けるも、調律師を目指したいとの思いからコツコツやっていくしかないと、努力を続けた。作品内でその努力が報われる描写はなかったが、それが現実を現している。

いくつか引用したように本書はとても美しい文体によって描かれ、先を読んでいきたいと思わせる作品である。読んでみないと分からない部分が多いので、ぜひ読んでもらいたい。

努力や成長、才能を改めて考えさせる素晴らしい作品であった。


おまけとして、宮下奈都の他の小説から特に印象的な一説を紹介する。

窓から見下ろす空き地は、真夏の灼熱から解放されて勢いを盛り返した濃い緑に埋めつくされていた。思い切り伸びきったヒメジョオンが揺れている。いかにも雑草然とした白い花が 傾いで、その花が、ふと香ったような気がした。ぶっきらぼうな、懐かしいような香りに気づいた次の瞬間、一斉に草の葉が揺れて、むせ返るような緑の匂いが押し寄せてきた。交響楽団が音合わせをしている光景が不意に脳裏にひらめく。いくつもの楽器が、思い思いの音を試している。やがてオーボエのラの音。バイオリンがそこに続き、ほかの楽器もその音に合わせはじめる。指揮者が舞台に現れ、手を上げて合図する。場内が静まる。タクトが振り上げられる。完全なる静寂。一瞬の後、緑の 息吹 が僕の呼吸に乗りうつる。こよみさん、と僕はいった。僕の部屋に引っ越してこない?

『静かな雨 (文春文庫)』宮下奈都

同棲を持ちかける一文だが、「僕の部屋に引っ越してこない?」を言うために、とてつもない熱量で表現している。何千回推敲したの?

これが宮下奈都の魅力である。


この小説、本屋大賞を受賞してなかったっけ?

本屋大賞は大衆に受け入れやすいものが受賞しがちだけど、この作品だけは厳しい現実を直視する作品だから紹介してみたよ

「お前が何も成し遂げられていないのは、才能があるかないかなどと下らないことを考え、努力を諦めているからだ!」なんて現実を誰も直視したくないものね!

けっこうズバッと言うじゃん ( ノД`)